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zoom RSS 好意/豊島与志雄

<<   作成日時 : 2013/06/24 14:42   >>

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「それも吉岡君の好意からだったのでしょう。私に気まずい思いをさせないようにと、あなたにまでも隠しておいてくれたのだと思います。」
 そして彼は、吉岡から八百円借りた顛末を話した。――それは四年前の年の暮、河野が最も窮迫した生活をしてる時のことだった。友人の紹介でうっかり借りた高利の金がつもって千円余りになっているのから、厳しい督促が来て、遂に執達吏を向けられてしまった。僅かな家財道具は勿論彼が自分の生命としてる製作品にまで、差押の札が貼られた。そのうちの一枚の静物画は、或人の頼みで苦心に苦心を重ねて仕上げたもので、その報酬を方々に割りあててどうにか年を越す予定にしていたものである。それが差押えられては、無一文のままで年末と正月とを迎えねばならなかった。もう二三ヶ月分もたまってる家賃、諸払い、方々への少しずつの義理、僅かながらの正月の仕度、流質の通知を受けてる質屋への利払い……そんなもののことを一度に考え廻しながら、彼と妻とは、幼い子供をかかえて途方にくれた。どこにも助けを求め得られる人が見当らなかった。細君と恋に落ちて同棲する時、彼の方も細君の方も親戚中の反対に出逢って、今では義絶の形になっていた。また友人連中のうちでも、少し余裕のありそうな方面は皆不義理をしつくしてしまってるし、その他は彼と同様に貧乏な者か金に不自由な独身者ばかりだった。で彼は思案に余って二日間もぼんやりしてた揚句、ふと吉岡のことを思いついた。吉岡とは年令も少し遠いし境遇も非常に違うし、単に画家と美術愛好家というだけの交りで、金銭のことを持ち出せるほどの間柄ではなかったが、ただ一つ心持の上の妙な交渉を持っていた。彼が周囲の反対と将来の目当とを無視して、細君と向う見ずな同棲を決心しかけた時、偶然彼は吉岡と二人で晩飯を食って、酒の酔も少し手助って、自分の恋愛を打明けたのだった。その時吉岡は、今後の生活をどうする気か、君の芸術をどうする気か、と云って猛烈に反対した。相手の女が、教員排斥のことか何かで郷里の女学校をしくじって、東京へ無断で飛び出してきて、今では遠縁の家へ預けられてる身の上だということも、彼の反対の理由の一つだった。然し河野は屈しなかった。云い張ってるうちに一層決心を固めた。ただそれだけのことだったが、それが変に二人の間に一種の親しみと気兼ねとを拵えていた。それで河野は、吉岡に頼るのが心苦しかったけれど、切迫(せっぱ)つまった余り思い切って出かけてみた。吉岡は彼の窮状を黙って聞いていたが、結局、別居こそしているが自分には父もあるし、金銭の自由は全くつかないのだけれど、四五日待ってみてくれ、考えてみるから……という返辞をした。河野はとても駄目だと思って帰った。それでも心待ちにしていたが、四五日たっても便りがなかった。すると一週間ばかりして、河野夫妻が絶望の腹を据えてる所へ、吉岡はふとやって来て、高利貸からの証文まで持って来てくれた。無理に金を融通した上、自分で高利貸の所へ出かけていって、八百円に負けさしてきたのだそうだ。河野夫妻は感謝の涙にくれた。
 河野はその時のことを――勿論細君との恋愛について吉岡が反対したという昔の話はぬきにして――敏子さんへ話しながら、眼の中が熱くなるのを覚えた。
 敏子さんは彼の話を、それから、それから、というように急いで簡単に切上げさして、その上、その折の書付なども見たことはないのでと云って、やはり金を取ろうとしなかった。
「書付なんか吉岡君は書かせはしませんでした。全くの好意からだったのです。吉岡君にお聞きになればよく分ります。実はもうとっくにお返ししておかなければならなかったのですけれど、始終気にかかりながらもつい延び延びになってしまったのです。漸く都合がついて持って上ると、吉岡君が急にお悪いようで、何だか変ですけれど、初めからそのつもりだったのですから、まあ御恩は御恩として、せめて元金だけなりと納めて頂けると、大変有難いんです。このままでは実際心苦しいんです。吉岡君が一言も何とも云ってくれないので猶更……。」
 哀願の調子でそう云ってるうちに、河野の顔にふと苦しい表情が浮んだ。それに気付いてか、敏子さんは急に折れて出た。
「では吉岡が何と申しますか、兎も角も明日までお預りしておきますから、明日にでも……明後日にでも、おついでの時にお寄り下さいませんか。」
 そして敏子さんは厚っぽくふくらんでる洋封筒を手に取りながら、かすかに顔を赤らめた。河野も同時に顔を赤くした。



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